「タッチングプール」が教えてくれたこと

先日、家の近くの港で開かれたお祭りで、子どもたちが魚の命を弄ぶ様子を見ながらはっとした、という話です。

こんにちわ、父親の子育てを楽しくしたい!けーけー(@comocci)です。

このあいだ「おさかなフェスタ」なるお祭りに子どもを連れて行ってきました。

近所の港で年に1回開かれているこのお祭りは、水揚げされたばかりの魚介類を食べたり、地元の店が屋台を出したりする、まあまあユルめの内容です。

そこに「おさかなタッチングプール」というものがあったんですね。

動物園でいうところの「触れ合いランド」的なコーナーで、プールに放たれた魚を自由に触れる、というもの。

覚えてる限りでは、タイ、ヒラメ、カワハギ、ドチザメ?、毒針を抜かれたアカエイ、フグetc…がヨタヨタ泳いでました。

キャッキャと騒ぎながら、生臭い水の中に手を突っ込んで魚を捕まえる子どもたち。

「ねえねえ、ユウちゃん。袖濡れてるよぉぉぉ!」とか言いながら、遠巻きに見つめるオトナたち。

そんなどこにでもある、高床式倉庫的でもポストモダン的でも何でもない、ただただ平和な景色です。

で、死んでるんですよね。

目次

魚にとって人間の体温は熱湯風呂みたいなものらしいです

死んでるね、浮いてるね!((c)中山美穂)って感じで、人間にベタベタ触られた魚たちは弱り、やがて死んでいます。

ちょっと想像してみて欲しいんですが、動物園の「触れ合いランド」において、瀕死のウサギちゃんを小脇に抱えた子どもがいたらどうですか?

「ワンワン触れ合いコーナー」で尻尾がもげ、目が白濁した柴犬がヨタヨタしてたらどうですか?

恐らく100パーセントの人が、「ちょちょちょちょ・・・」と飼育員さんを呼びに行かれると存じます。

いのちの軽重という厳しい現実

僕はべつに「今すぐこのイベントをヤメロ!」とか「カメラを止めろよな!」とか「魚にとって人間の体温は熱湯と同じだ!手袋をして3秒以内に水に戻す作業手順を考えて見える化せよ!」などと叫びたいわけではありません。

ただ心の中で「犬の命より魚の命は軽く扱われる」という、恐らく一般的に広くアグリーされている現実を噛み締めただけです。

噛み締めた僕は、魚たちに向かって心の中で合掌をしました。

そして・・・

目の前をヨタヨタ泳いでるチダイの背中をガッと掴み、水から引きずり出し、可愛い息子に

「ほれ、息子よごらん、これが鯛だ!」

などと、一緒になってキャッキャ楽しんだのでした。秋の深まりとともに・・・

人間はどうせいつも矛盾を孕んでいる生き物でした

突然ですが僕にも自宅というものがあります。家賃11万2千円の78平米。

なんでこんな値の張る物件を借りたのか?過去の自分にキレながら「値の張る自宅に根を張る」などというクソギャグを思いつき、さらに暗澹たる気持ちになって帰宅の途につきました。

自宅に帰宅。住んでいるのは北区。なーんてね。

妻は台所で瀬戸内寂聴を倍速で読みながら、パスタを茹でています。

そんな妻に今日あったこと、とりわけ「タッチングプール」の一件について話をしたんですね。

『いまどき動物保護団体が見つけたら抗議きちゃうと思わんかい?』
『ア〜グリィィィ〜』

そんな話をしながら僕は、ムスコ(5歳)が「お魚さんかわいそうだね」とひとことも言ってくれなかった事を心のどこかで気にしていました。

36歳の僕にとってそれは「正しい」ことであり、保護者として当然の気持ちだと疑いなく。

でもちょっとした違和感も覚えたんです。

何かが違う。

この違和感は何だろう。トランプ大統領の髪型かな?

茹で上がったパスタが宙を横切り、アツアツの茹で汁が僕の頰を「ピッ」と叩いたとき、僕ははっと気がつきました。

なぁ自分、お前自身も子どもの頃、夢中で動植物の命を弄んでただろ!?

自分の事を棚にあげて答え合わせを子どもに要求する大人

思い返せば、自分自身も子どもの頃、捕まえた昆虫を生きたまま後藤くん家の庭の焚き火に放り込んだな。

ヘビをゴミ袋に幽閉して、密閉したところに殺虫スプレーを噴射するという所業もやったな。

釣り上げた魚が外道の「フグ」だったという理由で、針先にぶら下げたまま岩場にガンガン打ち付けたこともあったっけ。

何故?と問われても、そのときは楽しかったから。としか答えられません。

それに比べてタッチングプールで瀕死の魚を弄んだことくらいなんだよ。お前が偉そうに言える事なのかよ。

そんな僕でも、36年生きていく中で命の尊さを学び、生き物が生まれてトクトクと心臓が動いている事の奇跡に気づいたじゃないか。

今では、家の中に迷い込んだハエを捕まえて、そっと外に逃がすくらいの優しさは持ち合わせるようになれたじゃないか。

おまえにも家族がいるんだもんな

人は変われるし、子どもはいつか自分で気づく

何が言いたいかというと、時の流れを信じようよ、ということです。

できなかった事もできるようになる。

今ここに無いからといって、永遠にこの先も無いわけではない。

時短時短、コスパコスパの世の趨勢を、知らないうちに子育てにも当てはめてしまっていたのかもしれません。

後から振り返ると目を背けたくなるような失敗や過ちも経験しないと、「かわいそうだね」の言葉に血は通わない。

生命を大切にする事の大切さはもちろん論を待ちませんが、それだけで捉えられない事がこの世界に起きることも確か。

「正しさ」を焦るあまり、最短距離で答え合わせをしようとしていた自分を少し反省した次第です。

「馬を水飲み場に連れていくことは出来るが、馬に水を飲ませることはできない」

この言葉を胸に留めて、辛抱強く子どもを育てていきたいと感じました。秋の深まりとともに・・・

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